騎龍観音
年末年始の休みに入ると、身の回りのこまごまとしたことを、一つ一つ片付けている内に、あっという間に晦日を迎えてしまいました。薪作りもかなり進んでいますが、何本かの巨木の後始末を請け負ったので、そのことも気がかりです。チェーンソーで一日5時間くらい作業をすると、体はくたくたです。先日の夕方、久しぶりにプールに出かけ、作業でカチカチになった体を水の中で伸ばしました。今日も今年の泳ぎ納めに、夜出かけてみようかなと思います。
僕は女子美術大学の非常勤講師をかなり長いことしていますが、最後に大学の教室に出かけたのがいつか、思い出せないくらい大学には行っていません。その代わり、毎回博物館や美術館を一般観覧者として訪れ、展示場や作品、時には建物の外観などを眺めながら、私なりの批評と解説、時には裏話や自分の人生観などについて2・3時間話をします。ですからいつも実物を見て話をします。対象が大学院の学生で、多くて2,3人の学生なのでこんな風にできるのでしょう。
先日、竹橋にある東京国立近代美術館を学生と訪ね、最上階にある原田直次郎作「騎龍観音」(護国寺蔵・東京国立近代美術館寄託)に向かいました。すでにギャラリートークが行われていたので、しばらくその話を聞かせてもらうことにしたのです。すると、この作品はいつの時代の作品か分からないとよく質問を受ける。皆さんはいつごろの作品だと思いますかと講師の先生が参加者に聞いていました。そんな風に思ったことが一度もなかったので、驚きました。
いろいろな反応がありました。まさかとは思いましたが平安時代という答えもありました。制作年は明治23(1890)年ですが、どうしてこんな風に見られるのかやはり理解に苦しみます。更に講師の先生は比較的最近この作品は修理を行ったので新しいとも見えると説明。私にはこれにもまた納得がいきません。ですが、ここは我慢。私の学生にもギャラリートークをそのまま聞いてもらいました。
「騎龍観音」を最近修理したのは、実は私たちの手によってなのです。その修理は新しく見せるために行ったわけではないのです。1980年ごろ、騎龍観音は創形美術学校修復研究所と言う油彩画を主に保存修理する研究所で修理を受けました。その頃、僕も職員の一人として修理に加わっています。そして、翌年の1981年に創刊した「創形美術学校修復研究所報告」第1号の表紙に、「騎龍観音」の修理中の写真を用いました。これはかなりインパクトのある写真です。
騎龍観音は、私たちが日ごろ見慣れている日本の油絵とは少しばかり違うのです。黒田清輝の油彩画以前に、脂派と呼ばれる作家たちが活躍した時代がありました。作品全体が暗く、樹脂のような質感や色をもつことからそのように呼ばれたのでしょう。騎龍観音の作者の原田直次郎もこの時代に属する絵描きです。彼ら所謂脂派の絵描きたちは、西欧の伝統的な技術と材料を正確に学び、それに従って忠実に作画する特徴があります。黒田が持ち込んだ印象派の流れをくむ紫派とはかなり違います。
騎龍観音の修理は、護国寺の寺内で煤をいっぱい浴びて全体がくすんでしまったこと、カンバスの木綿布が弱くなって緩んしまったために行われました。画面を水やアルコール水を浸みこませた綿棒で丁寧に拭くと、汚れた煤の下から美しい画面が姿を現しました。絵具自体の剥離や風化は余り進んでいません。薄靄の中から現れた緑色の龍に乗った観音、その白衣は漆黒の闇を背景にし、強いコントラストが印象的です。煤の下から現れた絵具は、ドイツで学んだ原田直次郎が、中部ヨーロッパに伝わる伝統の技術で塗り込めたものです。90年近く経っても、絵具の輝きは決して衰えていなかったわけです。作品は修理によって新しくなったわけではなく、ただ表面を覆う汚れを除去しただけです。90年程度の時間では堅牢な絵肌に変化がなかったと言った方っがいいのだろうと思います。
修理によって煤が除かれて、その分だけ明るく見えるようになったことは事実ですが、煤の下層には硬くしっかりと固まった、美しい油絵具がそのままの状態で残っていた訳です。だから、この絵に対する印象が、他の油絵とは異なるのは当然と言えば当然です。絵具の堅牢性とそこから放たれる美しさが直ぐに消えてしまう油絵とは違うのです。講師の先生にはこの点を言って欲しかった。
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